中心なのかそうで無いのか〜私の考え方〜

最近のことで

最近、武術系の動画や整体等の動画で簡単にできるという手軽さが受けてか、他者からそういう動画やワンデイ講座等についてどうですかと言われることが多くなった。

その中にはなるほどといったものや


なんじゃこりゃといったものまで(お話会や講座では直接話します)

様々だけど動画(特に公開動画)にしている時点で深めるという観点からは遠いものになっている感じがしています。(もちろん素晴らしいものもあります)

いいかどうかは人によって違う

それがいいかどうかは、私の場合の判断基準はその方に調和しているかどうかの一点です。
(この中にもステップはあるが、その個別の説明はセッション等になりますね)

それはさておきその方がどういう感情や感覚で聞いているかによっても違う。

体験のみ安易に知りたければそれでいいとは思う。

(面白いブログ記事あり 最近ずーーっと感じている、かなり危機的だと思うことのメモ )

浅い体験だけで満足なのか

一方このような考え方もあり、半面はその通りだとも思う。

ホリエモンが「修業は、まぎれもなく時間の浪費だ」と主張する真意

修業は、まぎれもなく時間の浪費だ。寿司(すし)屋の修業を例に取ろう。昔の寿司職人の修業といえば、高校卒業か早ければ中卒で店に入り、皿洗いなど雑用を数年こなす。その後、焼き物を担当してまた数年。師匠から包丁さばきや、料理のノウハウを教わるようになるのに、気づいたら10年という流れが当たり前だった。

 独立できるのは、もう40代だ。そんな修業の時間は、完全に無駄遣いである。 

 おいしい寿司のつくり方は、YouTubeやレシピ動画で公開されている。見たまま数カ月も真似(まね)れば、数十年修業した腕前と変わらないレベルの寿司を握れる。

 短期で料理法を教えてくれる学校や料理教室も、たくさん運営されている。料理のスキル獲得は、ネットで見つけた動画の独学で十分だ。僕がそう言うと、古い料理界から激しく批判された。「長い修業を積んでこそ、料理人の真の腕は磨かれるのだ!」と。実際はどうだろう。寿司屋での修業は一切せずに、寿司学校で学んだ経験だけのオーナーが開店した寿司屋が、いまではミシュランに掲載されている。まったく料理経験のなかったオーナーがラーメン店を始め、大行列ができている例も少なくない。

誤解されてはいけないが、僕は修業したいという人の意欲は、否定しない。下積み修業をして、たしかなスキルを身につけてから世に出ようという覚悟は、悪いものではない。自信創出のために必要な時間なら、好きなように修業したらいいと思う。

 だが、修業はスキル習得の絶対条件だ! という意見には、真っ向から反対する。

修業したければしてもいいけど「欲しいスキルは独学で、すぐ身につく時代だよ」という真実は、強く伝えたいと思う。

 修業すれば人間力が身につく、などと言われるが……そんなわけないだろう。だったら下働きし続けた中年はみんな、修業時間に比例して優れた人格を備えているはずだ。社会を見渡すと、決してそんなことはない。だいたい人間力なんて抽象的すぎる基準を盾に、これからの若者から大切な時間を奪うなんて、傲慢にも程がある。

 修業時間がありがたがられる時代は、とっくに終わっているのだ。(敬称略)

これは修行する側、修行させる側ともに今までの課題を突きつけられているように思う。

この意見すら半分しか見えていないと感じる。(これはまた書くか音声録音)

以下のキーワード

手軽、浅い、付け焼き刃的、簡易なコツ等々

本質的には意味を成さないという捉え方もある。

何を求めるのか

入口として触れてみるということは、今の時代には必要と思う。

触れる中に単純だけど奥の深いものもある。これらは簡単に見えて決して浅くはない。

浅く見たい人には浅く見える。

そうだから本質的には繰り返しは必要(同じことのように見えて実は違う)

浅くてもいいし、深くてもいい がしかし

私としてはどちらでもいいいと捉えています。

浅い中にも深いものがあり、深い中にも浅いものがあります。

ただ体感的に捉えているのはどちらにも中心的なものが存在するかどうかです。

それは人体が応えてくれる要素を備えているのでそれを磨くことかと思います。

どちらにしてもこの中心が外れているものは人生にとって私の場合は無駄になりますね。

またstand.fmのメンバーシップでも話してみようと思います。

手前味噌になりますが、ウチのセルフケア講座等は手軽だけど中心は外していないと思っています。