サンダー・シング(Sundar Singh)略歴
- 出生と宗教背景 1889年、インド(ヒマチャル・プラデーシュ州)にシーク教徒の家庭に生まれる。幼少期にヒンドゥー教、仏教、イスラム教、そしてシーク教の聖典を学び、深い宗教的探究心を示す 。
- 回心と伝道者への転身 18歳のとき、神秘体験によりイエス・キリストと出会い、英国国教会で洗礼を受ける。そこからインド、ネパール、チベット、さらには日本・中国・アメリカ・ヨーロッパへ伝道旅行を開始し、その生涯をキリストへの奉仕に捧げた 。
- 迫害と苦難 彼の伝道活動には多くの困難が伴い、暴行や強盗、獣による襲撃など幾度もの試練を乗り越えながら「東洋のフランシスコ」「現代のパウロ」とも称されるようになる 。
- 晩年と聖なる昇天
晩年、ヒマラヤ山中で祈るために出かけた後、行方不明に。信仰の強さから、※1エノクのように天に召されたと伝えられている 。
※1 エノクとは?
エノク(Enoch、ヘブライ語:חֲנוֹךְ Chanoch) は、旧約聖書(ヘブライ聖書)に登場する人物で、アダムから数えて7代目の子孫。彼はユダヤ教、キリスト教、イスラム教において重要な人物のひとりです。
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📖 聖書でのエノク
◉ 創世記における記述
• 創世記5章18-24節 によると、エノクは65歳でメトシェラ(メトセラ)をもうけ、その後300年間神と共に歩み、365歳で「神が彼を取られたので、いなくなった」と書かれています。
• つまり、エノクは死を迎えずに神に引き上げられた(天に取られた)稀有な人物とされています。
(同様の例は預言者エリヤ)
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📜 外典『エノク書』
• 聖書正典には入っていませんが、**「エノク書」(1エノク書)**という書物があります。
• これは紀元前3世紀〜紀元前1世紀頃に成立したとされ、エノクが天使に導かれて天界を旅する様子や、終末の預言などが記されています。
• エチオピア正教会では正典として扱われています。
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🕌 イスラム教でのエノク
• イスラム教では「イドリース(Idris)」という預言者がエノクと同一視されることがあります。
• クルアーン(コーラン)にも名前が登場し、神により高い地位に引き上げられたとされます。
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🌟 象徴的な意味
エノクは
• 神と共に歩む信仰者の模範
• 人間でありながら天に引き上げられた特別な存在
として、多くの宗教思想・神秘主義で重要視されています。
愛に基づくエピソード集
1. 母への深い愛と信仰の始まり
幼い頃、母の死に直面した際、彼はヒンドゥーの限界を感じ、キリスト探究へと踏み出す。母の存在が彼の信仰の原点になったというエピソードが残されている。
2. 異宗教間での愛と理解
多宗教の聖典を学んだ背景から、彼はヒンドゥー教徒にも敬意を払いながら、キリストの愛を説いた。その姿勢は異なる信仰を持つ人々にも共感を呼んだ。
3. 聖職者の間での尊敬
伝道の活動中には、東洋の僧侶(聖職者)とも深い対話を重ねた。特にキリスト教神秘主義を探究する中で、彼の真摯な祈りと歩む姿勢は、僧侶たちに「霊的本質の核心を貫く者」として尊敬された。
来日時のエピソード
サンダー・シングは1910年代に来日。ある学校で講演した際、生徒たちが彼を見るなり「まるでイエス・キリストが歩いてきたようだ」と語ったという逸話が伝わる 。これは、彼の外見やオーラに人々が圧倒された結果で、キリストとの交わりが容貌にまであらわれていたからとされます。
1918–1919年:アジア巡礼の一環としての来日
- 彼は当時、南インドからセイロン、ビルマ、マレー半島を巡り、1919年前後に日本を訪問したとされています 。
- 滞在都市としては、横浜・京都・岡崎・東京が知られており、アジア全体を回る巡礼の一部だったようです。
教育機関での説教と“イエスそっくり”伝説
- 日本のある学校でも招かれ講演し、托鉢僧としての装いで布教を行った記録があります 。
- 驚くべきエピソードとして、学生たちが彼を見て―― “イエス・キリストがこっちに歩いてきている!” と話したという逸話が伝えられています。これは彼の“顔つき・オーラ”があまりにも霊的だったためとされます。
托鉢僧としてのスタイルと異文化適応
- 彼は黄色のサドゥ服を着て、托鉢スタイルで布教し、西洋宣教師のような形式ではなく、日本の仏教文化との共感を意図した伝道手法を選びました 。
滞在の具体内容と現地での活動
項目 | 内容 |
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訪問都市 | 横浜、京都、岡崎、東京など () |
活動場所 | 学校、公園、寺社近辺といった公共空間(複数の書籍・伝記より) |
交流 | 日本のクリスチャン団体への手紙の送付や、講演の記録(例:金井為一郎氏宛)も残されています |
✨ その影響と文化的重要性
- 彼の来日により、キリスト教を西洋文化と結びつけず「東洋的文脈で伝える」スタイルが注目され、後に日本のアジア型伝道の一つのモデルとなりました。
- また、巡礼者として、宗教的寛容とシンパシーを持ち込むその姿勢は、当時の日本にも新鮮なインパクトを与えたと考えられています。
まとめ
- 来日日程:1918–1919年頃、アジア巡礼の一環として訪問(横浜、京都、岡崎、東京)
- 布教スタイル:黄色サドゥ服、托鉢的伝道、寺社近くや学校での講演
- 伝説的エピソード:学生が「イエスが歩いてきた」と感嘆
- 文化的意義:「東洋の霊性に根ざしたキリスト教伝道」の先駆けとなった存在